星野眞吾

星野眞吾

星野眞吾
HOSHINO,Shingo
1923~1997

1923年、豊橋市魚町の母方の実家に生まれ、豊川市牛久保町に育った星野は豊橋第二中学校(現・豊橋東高等学校)在学中から水彩画・油彩画を描き、中村正義と出会います。1942年には京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学し、鈴木武に日本画科に在籍していた三上誠を紹介されます。この三上を中心に山崎隆、不動茂弥、八木一夫らと前衛グループパンリアルを1948年に結成し、翌年には下村良之介、大野俶嵩らを加え日本画科卒業生によるパンリアル美術協会を新たに発足しました。1950年に教職を辞して帰郷した後もパンリアル展に出品を続け、日本画の概念にとらわれない抽象的・実験的な作品を発表してゆきます。 1964年、父の逝去が契機となって<人拓>シリーズがはじまります。これは糊をつけた身体を和紙に押しあて、その痕跡に岩絵の具を付着させるという独特の手法ですが、当初は掌、あるいは足の裏など身体の一部を用いただけでした。やがて対象は全身におよび、身体各部を組み合わせることによって多様な形態を画面上に展開し、ガラス片、画鋲、ビニールなどの無機質な物体が画面のなかに克明に描き込まれるようになります。 1974年、中村正義・斎藤真一・佐熊桂一郎・大島哲以・山下菊二・田島征三と人人会を結成。1977年には第35回パンリアル展-結成30年記念展に初期からの代表作を出品し、これを最後に同会を退会しました。この頃になると迫真的な写実描写だけで濃密な異空間をつくりあげるなど<人拓>に固執することのない表現活動をおこないます。 1985年に福井県立美術館において「三上誠・星野眞吾Ⅱ人展」が開催されたほか、1996年には豊橋市美術博物館・新潟市美術館において「記憶の痕跡―星野眞吾展」を開催しました。 晩年には白内障・緑内障のため視力が衰え、従来のような細緻な描写が困難となりましたが、つねに可能性を追い求める姿勢は衰えることなく、死を目前にしてなお意欲的な作品を残しました。

収蔵作品

  • 「生きもの」1971

    「生きもの」1971

  • 「赤い生贄」

    「赤い生贄」

  • 「奥の手」1997年

    「奥の手」1997年

  • 《ガン》1957年

    《ガン》1957年

  • 《人体による作品》1966年

    《人体による作品》1966年

  • 《終曲》1975年

    《終曲》1975年

略年譜

大正12年 豊橋市魚町に生まれ、豊川市牛久保で育つ。 昭和19年 京都市立絵画専門学校図案科を修了後、同校日本画科へ再入学 昭和23年 同科を卒業し、教職につく。三上誠、山崎隆、不動茂弥、八木一夫らと前衛グループ・パンリアルを結成。翌年には大野俶嵩、下村良之介らを加え、京都市立絵画専門学校日本画科卒業生らによるパンリアル美術協会を新たに発足。以後パンリアル展に出品。 昭和25年 教職を退き、帰郷。 昭和28年 中美展で佳作賞を受賞。東三在野美術協会に参加。 昭和37年 第5回中部日本画総合展で最優秀賞を受賞。 昭和39年 〈人拓〉シリーズを始める。正義とともに日本画研究会に参加。 昭和46年 東京造形大学で非常勤講師をつとめる(~48年)。 昭和49年 中村正義・斎藤真一・佐熊桂一郎・大島哲以・山下菊二・田島征三と从会を結成。以後同展に出品するほか、日本国際美術展、現代日本美術展に出品。 昭和52年 パンリアル美術協会を退会。 昭和60年 三上誠・星野眞吾Ⅱ人展(福井県立美術館)開催。翌年、「戦後日本画の一断面」展(山口県立美術館)に出品。 昭和62年 「現代のイコン」展(埼玉県立近代美術館)、「日本画の4人展-大野俶嵩・下村良之介・星野眞吾・三上誠」(和歌山県立近代美術館)、翌年、「日本画 戦後の歩みⅡ」展(いわき市立美術館)に出品。 平成2年 「日本画 現代の視覚」展(新潟市美術館)、「燃焼の時代1950年代京都の日本画」展(京都市美術館)に出品。 平成5年 名古屋芸術大学特別任用教授となる。「近代日本画への招待Ⅲ-戦後日本画の展開」展(山種美術館)、「戦後日本画の転換期展-1950年代を中心に」展(栃木県立美術館)に出品。翌年、豊橋文化賞を受賞。 平成8年 星野眞吾展(豊橋市美術博物館、新潟市美術館)開催。翌年、逝去。

この記事は 2014年02月10日に更新されました。

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