草土社

岸田劉生《高須光治君之肖像》

岸田劉生《高須光治君之肖像》
1915年(第2回草土社展出品)

白馬会の葵橋洋画研究所で外光派表現を学んだ岸田劉生と木村荘八は、文芸雑誌『白樺』で紹介されたゴッホやセザンヌなど新印象主義の画風に強く感銘し、明治45年に斎藤与里・高村光太郎・萬鉄五郎など同志とともに結成したフューザン会においてその影響を色濃く反映した作品を発表します。翌年の2回展をもって同会は解散しますが、劉生と木村は巽画会展洋画部に審査員として参加。この展覧会に出品した清宮彬・椿貞雄・中川一政・横堀角次郎・中島正貴・高橋三千夫、そして豊橋出身の高須光治が草土社のメンバーとなりました。大正4年、劉生らは飛田角一郎・柳沢菊次郎を加え、現代の美術社主催第1回美術展覧会を開催。これが実質上の草土社第1回展となり、以後、田村憲・河野通勢らが同志に加わります。草土社の名は当時、劉生が代々木界隈の赤土と草を好んで写生したことに由来します。このころ劉生はデューラーやファン・アイクなど北方ルネサンスに傾倒し、自ら「写実的神秘派」と称して写実を極めていました。他の同人もこれに追随し、時代に逆行するとの批判を浴びながらも、いわゆる草土社風とよばれる特質を生み出します。 当地方で草土社風を顕著に示したのは愛美社の画家たちでした。大正6年の草土社名古屋展で強い感銘を受けた大沢鉦一郎は、同年に宮脇晴・萬代比佐志・鵜城繁・山田睦三郎・藤井外喜雄・森馨之助ととも愛美社を結成し、戸外風景や村娘など草土社風の主題を描きます。 草土社は大正11年の9回展まで活動を続けますが、関東大震災後に主宰者の劉生が京都に移ったため、展覧会の存続がなされず自然解消となります。この頃になると劉生は東洋画の傾向をより強めていき、草土社同人もまた劉生の影響を脱して、それぞれの表現を確立していきました。
  • 岸田劉生「田村氏の肖像」

    岸田劉生「田村氏の肖像」

  • 中川一政《静物》

    中川一政《静物》

  • 木村荘八《祖母の像》1913年

    木村荘八《祖母の像》1913年

  • 椿貞雄《砂利の敷いてある道》 1916年

    椿貞雄《砂利の敷いてある道》
    1916年

この記事は2014年03月05日に更新されました。