中村正義

中村正義

中村正義
NAKAMURA,Masayoshi
1924~1977

1924年、愛知県豊橋市花田町で生まれ、日本画家を志した正義は、1946年に上京して中村岳陵の蒼野社に学びました。この年、第2回日展に《斜陽》が初入選し、翌年には第32回院展にも初入選を果たしています。
また1949年より一采社同人として研鑽を深め、日展・院展では端正かつ穏やかな筆致で風景画や人物画を出品する一方、一采社展には実験的な作品を発表しました。翌年には第6回日展で《谿泉》が特選となるほか、第8回日展では《女人》が特選となり朝倉賞・白壽賞を受賞。第3回新日展では審査員をつとめるなど、新進画家として期待を集めますが、古い因習にしばられた日本画壇に疑問を抱き、1961年には我妻碧宇、森緑翠とともに蒼野社を退いて同時に日展を離脱します。
これを機に作風は一転し、蛍光塗料やボンドなど異素材を用い、原色を多用した奔放でエネルギッシュな表現を展開してゆきます。また絵画制作にとどまらず、挿絵や劇場の緞帳原画にもたずさわり、1964年には石原慎太郎原作『一の谷物語』(日生劇場)の美術を手がけ、小林正樹監督映画『怪談』(東宝株式会社)では《源平海戦絵巻》を制作しました。このほか、研究著書『写楽』(ノーベル書房)の刊行、住宅のオートメーション化による特許取得など多彩な活動を行っています。
当初その活動は個展を中心としたものでしたが、1974年には星野眞吾らと人人会を結成し、タテではなくヨコのつながりを重視した正義の理想とする組織を発足させました。
すでにこの頃になると画面は陰鬱な色調へと向かい、闘病生活からくる死への不安と恐怖を内包した作品を発表するようになります。また厚く顔料を重ねた画面を上から研ぎ出すなど工芸的な手法も試みており、社会的権威者への不信をあらわにした《おそれ》や水俣病問題を扱った《何処へいく》など社会性の強い作品も制作しています。1975年には東京展市民会議事務局長として奔走し、第1回東京展を開催しますが、1977年に肺ガンによる呼吸不全のため享年52歳で逝去しました。

収蔵作品

  • 「舞妓」1962年頃

    「舞妓」1962年頃

  • 「陽」1963年頃

    「陽」1963年頃

  • 「舞妓」1966年頃

    「舞妓」1966年頃

  • 《谿泉》1950(昭和25)年

    《谿泉》1950(昭和25)年

  • 《男と女》1963(昭和38)年

    《男と女》1963(昭和38)年

  • 《瀟湘八景》より「洞庭秋月」1964(昭和39)年

    《瀟湘八景》より「洞庭秋月」1964(昭和39)年

  • 《うしろの人》1977(昭和52)年

    《うしろの人》1977(昭和52)年

略年譜

大正13年 豊橋市花田町に生まれる。
昭和15年 豊橋市立商業学校を病のため中退。以後、夏目太果、畔柳栄、杉山哲郎らに日本画を学ぶ。
昭和21年 中村岳陵に師事し、蒼野社に入門。第2回日展に初入選し、以後同展に出品を続ける。翌年、第32回院展に初入選。
昭和24年 一采社同人となる。翌年、第6回日展で特選となる。同年、中日美術教室を開設。
昭和27年 第8回日展で特選となり、朝倉賞・白壽賞受賞。翌年、豊橋文化賞を受賞。この頃より肺結核を患い、一時制作を中断。
昭和30年 名古屋市に転居。
昭和35年 中日文化賞を受賞。第3回新日展で審査員となる。翌年、岳陵の蒼野社を退き、日展を脱退。川崎市に居を転居して朝日秀作美術展、現代日本美術展、日本国際美術展などに出品するほか、個展を中心に作品を発表。
昭和38年 石原慎太郎原作『一の谷物語』の舞台美術を担当するほか、小林正樹監督映画『怪談』のために《源平海戦絵巻》を制作するなど、この頃より多彩な活動を展開。翌年、針生一郎らと日本画研究会を発足。
昭和45年 研究著書『写楽』を刊行。47年まで東京造形大学の日本画非常勤講師をつとめる。
昭和47年 「戦後日本美術の展開―具象表現の変貌」展(東京国立近代美術館)に出品。
昭和49年 星野眞吾・山下菊二らと人人会を結成。翌年より東京展市民会議事務局長として奔走し、第1回東京展を開催。
昭和52年 逝去。

没後記録

豊橋市美術博物館(54年)、いわき近代美術館(58年)、神奈川県立近代美術館(同年)などで回顧展開催。昭和63年、川崎市の自宅に中村正義の美術館が開館。平成9年、没後20年-中村正義展(豊橋市美術博物館、川崎市市民ミュージアム、新潟市美術館)開催。

この記事は 2014年02月06日に更新されました。

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