戦後から現代

 戦後いかにして豊橋が復興したのか、そして新たに栄える豊橋港を取り上げます。

 昭和20年(1945)6月20日の未明、アメリカ軍のB29・136機の空襲を受け、豊橋の市街地は焼け野原となりました。しかし戦後の復興に燃えた人々は、同年中には軍用地であった高師原の開拓に着手し、豊橋市南部一帯に広大な農地をつくりました。
 市街地の戦災復興は計画的に行われ、豊橋市は商業・工業・住宅地域がはっきりと分けられた近代都市として生まれ変わりました。また、昭和29年には復興と進展をテーマにした豊橋産業文化大博覧会が吉田城址で開催され、116万人もの人々が会場に訪れました。
 暴れ川であった豊川の治水を目的に、昭和40年(1965)には豊川放水路が設けられました。さらに昭和43年には豊川用水が開通し、水不足に悩む農家の人々に新たな希望を与えました。
 昭和30年(1955)、町村合併により人口20万都市となった豊橋市は、経済発展のため大工場の誘致にも着手しました。さらに昭和47年(1972)に開港した豊橋港は、現在では国内有数の国際港として自動車の輸入で全国第一位となっています。
 現在の豊橋市は人口約38万人を数え、愛知県東三河地方の中心的なまちとなっています。

豊橋港

 国際貿易港・豊橋港は、豊橋市の新たな顔として、また臨海工業地帯の中心的役割をになう地域として、最近注目されています。
 昭和38年(1963)に工業整備特別地域と重要港湾の指定を受け、三河港づくりと臨海工業地域の計画は進められました。そして漁業補償問題などの難問を乗り越え、昭和47年に豊橋港は正式に開港しました。
 昭和53年には貿易港に必要な国の出先機関が設置され、国際貿易港となりました。現在では地の利を生かして国産自動車の輸出基地として利用されるほか、外国車の輸入拠点ともなっています。ヨーロッパの自動車メーカーが相次いで豊橋港付近に進出しており、自動車の輸入量は全国第1位となっています。

豊橋港

豊橋港

この記事は 2014年02月06日に更新されました。

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