瀟湘八景

中村正義(1924-1977) 1964(昭和49)年 紙本着彩、軸装 各30.4×74.8(8点組)

洞庭秋月

洞庭秋月

解説

《瀟湘八景》とは、中国山水画の画題です。瀟湘(しょうしょう)とは湖南省洞庭湖の南に位置する景勝地で、様々な文人墨客が自然景観を題材に取り組んでいます。我が国には、牧谿や玉澗の図巻がもたらされ、鎌倉後期頃から日本人絵師の手によって盛んに描かれるようになりました。大正元年には横山大観がこの画題に取り組み、従来の水墨画に色頃を持ち込んで、八幅を二幅ずつ四季に割り当て描いています。正義はこれを下敷きに、奔放自在な墨による太い描線とそれに負けず主張する強い色頃を駆使して、独特のユーモラスな人物たちが登場する八景を完成させました。この《瀟湘八景》は、大観とは異なった独特な世界を形成し、名古屋の百貨店で発表された昭和39年当時、特に人気を集めたため、その後も何組か同じ画題でかれています。4組の《瀟湘八景》が現在確認されているが、中でも本作品は小品ながら初作ということもあり、作家の意欲と緊張感が反映された優れた出来映えとなっています。

山市晴嵐

山市晴嵐

山市晴嵐

骨太の墨線で大胆に山の稜線をひき、手前に身を寄せ合うように連なる里の家並みを描きこんでいます。この対比によって山の雄大さが一層強調されますが、後のヴァリエーションでは街並みがもう少し大きく描かれるようになりました。また、色彩もこの画では春あるいは夏を象徴するかのように青々とした緑色で描かれていますが、後の画では茶褐色に変じます。荒々しい緑色の筆跡は山気を表現しているのでしょう。こうした自然のスケールの前には我々の住む町など、この画のように小さく感じられます。

漁村返照

漁村返照

漁村返照

《漁村返照》は「漁村夕照」とも称され、正義の作品には3人の漁師が登場します。ユーモラスに描かれたその人物たちは漁に精を出す姿ではなく、夕暮れ時の空を背に膝をかかえ、一日の仕事を終えてしばしくつろぐといった呈に描かれます。全体的に淡い墨で描かれていますが、暮れなずむ空をパステルで着色し、人物たちに濃い色を与えることで茫洋とした画面に生彩を与えています。ところで正義の《漁村返照》では、いずれの作品も帆を掲げる漁船の此方側の船縁を描くことなく、手前部分で断ちきっています。鑑賞者を画面に引き込み、臨場感を誘う効果を求めたのでしょう。

遠浦帰帆

遠浦帰帆

遠浦帰帆

《山市晴嵐》と同様、春あるいは夏の光景として描かれることの多い画題です。墨色を除いてほぼ緑色で描かれた《山市晴嵐》に対し、この《遠浦帰帆》では山景も水景も茶褐色が占めています。前者の日本的な山並みに比べると、いくぶん中国的・観念的な景観といえるでしょう。右下を占める水景が画面中央へと流れる不安定な構図ですが、後の平坦な水景による《遠浦帰帆》に比べると、遠くで漁を終え急ぎ帰りつこうとする漁船の、はやる動きが伝わってくるかのようです。

瀟湘夜雨

瀟湘夜雨

瀟湘夜雨

雨にけぶる夜の湖畔を描いた叙情的な一枚です。舞台となった江南地方は湿潤な気候で知られていますが、《瀟湘八景》が日本に広く受け入れられた背景にはこうした地形や気候の類似もあるでしょう。湖水と雨というまさに「水」をテーマとした情景を描くに際し、正義は墨のにじみや、パステルの上から絵の具を施すなど、水の持つ効果を多用しました。空も雨も湖水も鈍い灰色で仕上げられた画面ですが、山腹に施したパステルの黄土が家並みを引き立てています。

烟寺晩鐘

烟寺晩鐘

烟寺晩鐘

《烟寺晩鐘》とは「煙寺晩鐘」「遠寺晩鐘」とも称され、夕靄に包まれた寺の鐘が響く情景を指します。正義の《烟寺晩鐘》は墨一色で峻厳な山岳を描く、まさに水墨画ですが、《瀟湘夜雨》でもあらわされた水に滲む墨の効果が主体となっています。本来、この山岳風景には鐘を響かせる寺が描き込まれるのですが、よくみると画面中央下の山頂に屋根を重ねた小さな塔が、描きこまれています。

平沙落雁

平沙落雁

平沙落雁

《平沙落雁》は冬あるいは秋の景として描かれます。湖面に舞い降りる雁の群を描きますが、正義の作品では頸を挙げて飛び立つ瞬間のようです。しかし、一方で湖面は鏡のように静まりかえっています。水面のほとんどを余白で占めますが、黄土に塗られた部分は遠景の山林の影を映しでいるのでしょうか。その色から蘆の茂みのようにもみえます。ざらざらとした画肌はパステルを多用したためでしょう。

洞庭秋月

洞庭秋月

洞庭秋月

正義の《瀟湘八景》の中で人物が登場する二点目の作品です。《漁村返照》のコミカルな人物表現とは違い、登場するのは威厳ある文人のようです。秋の月を観ながら詩を吟じているのでしょうか。船尾に眠たげに身をしずめる従者の表情も丁寧に描かれています。こうした人物への配慮に比して、遠景の山並みが墨の一刷毛であらわされるところなどは、正義の抑揚あるバランス感覚を物語っています。

江天暮雪

江天暮雪

江天暮雪

濃く太い線描で山の稜線をあらわした《江天暮雪》は夕暮れ時の雪景を描いています。正義はこれを峻厳な山とするのではなく、空に枝をはる冬枯れの樹木を添えることで親しみやすいものとしています。しかしこれまでの山々とは違い、一山のみを大きくとらえることで、なにか象徴的な力強さをこの山に与えています。背景は朱に灰色を重ね、冬の夕暮れの情感を伝えます。

この記事は2014年02月11日に更新されました。