大森運夫

大森運夫 OHMORI,Kazuo 1917~

大森運夫
OHMORI,Kazuo 1917~

1917年、豊川市三上町に生まれた大森は、郷里の中学校で国語教師をつとめていましたが、中村正義と出会いによって独学で日本画をはじめるようになります。33歳という遅いスタートでしたが、1951年には新制作展および日展に初入選を果たし、以後新制作展に入選を重ね、骨太い筆致で風景や人物を描きました。1962年からは教職を辞し、川崎市の中村正義の宅地内に転居して画業に専念します。また同年、第26回新制作展に出品した<ふきだまり>三連作により新作家賞を受賞しました。この時期の主題は都市の底辺に生活する労務者らの姿で、画風においても顔料を厚く盛って硬質なマティエールをつくりだすなど、より激しい表現へと発展をとげます。対象が九十九里浜のたくましい漁民たちの姿に移ると、作風は明るさと大らかさに満ちたものとなり、さらに1966年の欧州旅行で目にしたロマネスク彫刻からの強い印象をもとに人物のデフォルメを一層押し進め、<モロッコ>や<オホーツク>などの連作を生み出しました。
  • 《佐渡冥界の譜》1973年

    《佐渡冥界の譜》1973年

  • 《ふきだまりⅡ》1962年

    《ふきだまりⅡ》1962年

やがて描く対象を自国の豊饒な伝統芸能や祭りへと移し、演者だけでなく伝統を支える民衆の力を画面に融合させた勇壮で躍動感あふれる祭りシリーズがはじまります。 1977年からは東北地方の土着の風俗に身を包んだ<おばこ>に着目し、画風は動的な荒々しい表現から静的な写実描写へと変遷を遂げました。1984年からは人の生き様をうつしとったかのような浄瑠璃人形を主題に描き、幻想性ある世界をつくりあげます。また形状をとどめない破損仏にも取り組み、近年は現代に生き、彷徨する若者たちの姿を対象としています。1992年には豊橋市美術博物館において初の回顧展「大森運夫展を開催するほか、1997年には豊川・桜ヶ丘ミュージアムにおいて「大森運夫-民衆の心を描く-」が開催されています。
  • 《幻聴》1985年

    《幻聴》1985年

  • 「灯翳」

    「灯翳」

略年譜

大正 6年 豊川市に生まれる。 昭和12年 岡崎師範学校を卒業し、教職につく。 昭和25年 中村正義と出会い、日本画をはじめる。翌年、第15回新制作展、第7回日展に初入選。中村正義らと画塾・中日美術教室開設。 昭和37年 教職を退き、上京して画業に専念する。第26回新制作展で新作家賞を受賞(第30回・32回・34回も受賞)。この頃より現代日本美術展、現代美術選抜展、日本国際美術展などに出品。 昭和46年 愛知県立芸術大学講師をつとめる。新制作協会会員に推挙される。翌年、’72新鋭選抜展で優秀賞を受賞。 昭和49年 新制作協会日本画部が独立して創画会となり、以後創画会会員として同展に出品を続けるほか、日本秀作美術展などに出品。翌年、第3回山種美術館賞展で大賞を受賞。 昭和56年 「現代日本美術の展望-日本画」展(富山県立近代美術館)に出品。 昭和63年 「今を生き、そして描く-日本画現代」展(福島県立美術館)、「日本画-戦後の歩み-Ⅱ」展(いわき市立美術館)、現代日本画巨匠展(茨城県立近代美術館)に出品。 平成 4年 大森運夫展(豊橋市美術博物館)に出品。 平成 6年 「現代日本画の展開」展(富山県立近代美術館)、日本画家五人展(豊川・桜ヶ丘ミュージアム)に出品。 平成 9年 「大森運夫-民衆の心を描く-」展(豊川・桜ヶ丘ミュージアム)が開催される。

この記事は 2014年02月06日に更新されました。

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