森 緑翠

森 緑翠

森 緑翠
MORI,Ryokusui
1917~1999

森緑翠(もりりょくすい)は大正6年、東京都江東区深川に生まれました。本名は博(ひろし)です。父の森暁紅(もりぎょうこう)は演芸評論家として活躍した人物です。13歳より中村岳陵(なかむらがくりょう)に師事して蒼野社(そうやしゃ)に入門。岳陵の清廉な画風を受け継ぎ、昭和10年に院展、12年に新文展に初入選を果たし、第6回新文展では《檜(ひのき)》が特選となるなど、しだいに頭角をあらわします。また、院展・新文展のほか、野島青茲(のじませいじ)の紹介により日本画研究グループ・一采社(いっさいしゃ)に参加して研鑽(けんさん)を積むほか、法隆寺金堂壁画再現の模写事業に中村岳陵班として参加しました。 戦後は引き続き日展・一采社展を活動拠点とし、愛児を描いた《こども》などのすがすがしく愛らしい作品を発表しますが、昭和24年に肺結核が悪化して制作活動の中断を余儀なくされます。翌年、同門の中村正義の勧めで転地療養のため愛知県渥美郡に移り、昭和32年には豊橋市に転居しました。10年にわたる療養生活を終え、本格的に中央画壇に復帰したのは第2回新日展で特選となった《少女》からです。しかし、昭和36年に我妻碧宇(あづまへきう)、中村正義とともに岳陵の蒼野社を退いたことで日展からも離脱しました。 以後、我妻碧宇らとともに結成した白士会(はくしかい)を活動拠点とし、同会の中心的役割を果たすほか、当地方の展覧会を中心に作品の発表を行います。作風においても師の影響からの脱却をはかり、アフリカの土俗的な仮面をモティーフとした《顔》などの作品を試みています。昭和40年代には白士会主催の中国写生旅行に参加し、当地で得た印象をもとに新たな画境を拓きました。スペインをはじめ欧州各地にも赴いて静かな路地や海辺、エキゾチックな風物など郷愁ある独特の情景を描きだしますが、詩情に満ちた《倫敦寒燈(ろんどんかんとう)》《グラナダ回想》などがこの時期の代表作にあたります。その人柄を反映した温雅で繊細な作品は郷土の人々に親しまれ、平成6年には当館において初の回顧展を開催しました。

収蔵作品

  • 「少女」1959年

    「少女」1959年

  • 「蘭花」1990年

    「蘭花」1990年

  • 「倫敦寒燈」1982年

    「倫敦寒燈」1982年

  • 「出漁」1967年

    「出漁」1967年

略年譜

1917(大正 6 )年 東京都江東区深川に生まれる。本名森博。 1930(昭和 5 )年 中村岳陵に師事して蒼野社に入門。 1935(昭和10)年 第19回日本美術院試作展、第22回院展第1部試作展に初入選 1937(昭和12)年 第1回新文展に初入選。 1939(昭和14)年 召集を受けるが、肺結核を患い、兵役免除となる。 1942(昭和17)年 野島青茲の紹介で一采社同人となる。翌年、第6回新文展で特選となる。法隆寺金堂壁画再現のため、中村岳陵班で模写事業に参加。 1947(昭和22)年 第3回日展に初入選。 1949(昭和24)年 肺結核が悪化し、制作活動を中断。翌年には中村正義の勧めで愛知県渥美郡で転地療養。 1957(昭和32)年 豊橋市に転居。 1959(昭和34)年 第2回新日展で特選となり、翌年には無鑑査出品。 1961(昭和36)年 我妻碧宇、中村正義とともに岳陵の蒼野社を退き、日展からも離れる。我妻碧宇、浅田蘇泉、永井繁男、伊東隆雄らと白士会を結成し、第1回白士会展を開催。以後、同展に出品するほか、選抜展、朝日美術展、中部国際形象展、中部総合美術展、中日展など中部地方を中心に活動。 1973(昭和48)年 東京都中央区中央会館のホール緞帳原画を制作。 1980(昭和55)年 豊橋文化賞を受賞。 1982(昭和57)年 郷土作家作品展(豊橋市美術博物館)に出品。翌年、「郷土ゆかりの日本画家たち」展(岡崎市美術館)に出品。 1992(平成4)年 「東海の作家たち」(愛知県美術館ギャラリー)に出品。愛知県文化功労者として表彰される。東海テレビ文化賞を受賞。翌年、「20世紀愛知の美術」展(愛知県美術館)に出品。 1994(平成6)年 森緑翠展(豊橋市美術博物館)が開催される。 1996(平成8)年 「瑠爽画社と一采社の画家たち」展(山種美術館)に出品。 1998(平成10)年 第21回東日賞(東海日日新聞)を受賞。翌年、逝去。享年82歳。

この記事は 2014年02月12日に更新されました。

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