「手塚治虫と私」

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 林 毅 
 株式会社豊川堂本店店長
 小学3年生の時に長期入院をしていました。入院生活は退屈で、しょっちゅうマンガ雑誌を捲りながら、ノートにそれを描き写していました。いろんなキャラクターを模写していましたが、とくに「鉄腕アトム」の、角度によって違う尖った髪型がしっくり描けなかったりして、何度も描いては消しての繰り返しでした。後に知ったのですが「マンガの神様」は下書きもせず執筆していたとか(プロですもんね)。
 でもそのおかげか、高校までずっと美術だけは「5」でした(漫画家を志すほどの腕前にはならなかったですけどね)。
 林 義将
 普門寺住職
 私が初めて手塚治虫作品と出会ったのは、小学校の図書室にあった『火の鳥』でした。小学生の私は、その壮大な物語の世界に魅了され何度も読み返したことを今でも覚えています。その『火の鳥』と並び、手塚作品の最高峰と謳われるのが『ブッダ』です。タイトルの『ブッダ』とは、目覚めた人と言う意味があり、仏教の教えを開いたお釈迦様の生涯を長期に渡って描いた大作です。物語の中には、主人公のブッダだけではなく大勢のキャラクターが登場します。その登場人物一人ひとりの人生を克明に描くことで、なぜその時代に仏教が誕生し、人々に支持され必要とされたのか知ることができます。ブッダを通じて「人の存在」「命の尊さ」「命の繋がり」を考えると共に、仏教の教えと手塚治虫の哲学に触れてみませんか?
 平田満
 俳優/豊橋ふるさと大使
 手塚治虫は僕の憧れの漫画家でした。最初に出会ったのは「鉄腕アトム」だったと思います。その後も「リボンの騎士」や「ジャングル大帝」「三つ目がとおる」「ブラック・ジャック」、大人向けの「火の鳥」や「ブッダ」など心ときめかせて読みました。すべて残ってほしい作品ですが、SFと歴史、哲学の混在した「火の鳥」はぜひ後世に残るべき作品だと思います。ご本人にお会いしたのは一度きりですが、若い僕らの劇団の芝居を見たうえ楽屋にまでいらして、僕らのサインのおねだりにも嫌な顔をせず、下書きなしに次々とサラサラ書いてくださったのには感激しました。
 古池もも
   市議会議員/デザイナー
 幼児期「これで勉強しりん」と親に渡されたのが手塚治虫全集で、朝も夜も漫画しか読まない人間に育ちました。しかし手塚作品にはあらゆるものが描かれているため、結果は親の目論見通り「勉強」に。芸術作品やSF、歴史や民俗学への興味も作品の影響。8割がた手塚治虫で出来た思考回路かもしれません。中でも特に影響を受けたなと感じるのはモノの見方ですね。手塚作品は主題とは逆の視点から描かれた作品が多いので読むだけで多角的な見方をすることになります。そのせいか自分がこっちならどうか、こっちならどうかと考える癖が付きました。つまり何が言いたいかというと、子育て中の皆さん、子どもに手塚作品を読ませましょう。
 本多俊文
 こども未来館ここにこ企画担当体験発見プラザ担当
 自宅の本棚にあったブラック・ジャックを手に取ったのをきっかけに、公立図書館で火の鳥やどろろを借りて読み、中学生の頃には鉄腕アトム「地上最大のロボット」を原作にした浦沢直樹の漫画PLUTOに夢中になりました。さらに今では、手塚治虫の作品をデジタルコミックでも読める時代。特にMWやアドルフに告ぐ、きりひと讃歌などは漫画アプリを通じて好きになった作品です。
 僕が生まれた時には、すでに手塚治虫はこの世を去っていました。しかし、手塚漫画をリアルタイムで知らない20代以下の僕らでも、あらゆる形でその傑作にふれることが出来る時代でもあります。今の子供たち、未来の子供たちもまた手塚治虫に出会い、時を越えて愛され続けることを願っています。
 牧野圭 
 漫画家/豊橋ふるさと大使
 今思うに「手塚氏は自分の発明した漫画は、世界共通語である!ことを知っていた!」だから、医者になるより、迷わず、漫画家を選んだのである。…と私は信じている。
 ロボット・アトムだけでなく、「ブラック・ジャック」で、医療面への自説の展開も可能となったのである。この「宝物」を手中にした人は、通常の利益や名声に執着することは無い筈である。
 しかも、この宝物は、手塚氏一代で築いた(気付いた)ものではなく、日本文化の長い歴史の中から紡ぎ出し、手塚氏がそれを天下に知らしめた!
 まさに、時代の、否次代を見通していたに違いない。…
 手塚治虫氏は意識していたか無意識であったかは別にして、世界に漫画文学としての価値を見直させる役目を担っていたのである。
 松井守男
 画家/豊橋特別ふるさと大使
 ピカソとは彼の親友の画家ピニョンを介して親交が始まり、他界するまでの5年間アトリエに自由に出入りさせて頂いていました。ある日アトリエに行くと、何と手塚治虫の日本語版『鉄腕アトム』の本がピカソの手元に置いてあるのを見つけました。恐る恐る「コレは?」と伺おうとすると、「レオナルド・フジタから貰った。日本版ピノキオだけど、宇宙を感じる作品。壮大だね。」とピカソは言いました。
 藤田嗣治もピカソも愛読していた手塚治虫作品。
 日本が誇る世界の芸術家でした。
 山西正泰
 豊橋市教育長
 幼稚園の頃,我が家の白黒テレビで観ていた「ワンダースリー」は思い出深い。特に,あの一輪車ビッグ・ローリーの魅力はたまらなかった。ビッグ・ローリーに乗りたいと思って,幼稚園にあったタイヤに入って転がった。ずいぶん痛い思いをし,漫画との違いを思い知らされた。今は,タイヤが園児や児童の遊び道具になっていたら、危機管理上どうなのかと考える立場にある。
 ただ,鉄腕アトムにしても,ビッグ・ローリーにしても,半世紀で現実のものになってきていることに手塚治虫の凄さを感じる。当時は夢を描いていたと思うが,夢が現実のものになるということを,この展覧会を通して子どもたちに気づいてもらえたらと思う。   
 山本真梨子
 写真家/株式会社ワールドグループYADOYAGUESTHOUSE代表
 東京での生活が、生まれ育った豊橋での年月を超えた。
 高校を卒業後、世界を放浪し、流れついたのが東京だったのだが、どんなに場所を移動しても自分という人間がつきまとう。
 数年前、自分に疲れ果てた時期が続いた。その時、友人が手渡してくれたのが「ばるぼら」だった。なんだこの奇妙な漫画はっ!と思いつつ、最後まで一気に読んだ。都会が何千万という人間をのみ込んで消化し、たれ流した排泄物のような女、でもミューズ、バルボラ。
 都会で生きること。何かを創り続けること。世間の評価。
 手塚治虫も、答えのない問いを続けていたのでは?と思いながら、私も排泄物でもよいから、しぶとく生きてみようかと前を向いた作品。

この記事は 2020年09月24日に更新されました。

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